映画感想「ミネソタ無頼」
1964年制作のマカロニ・ウエスタン。セルジオ・コルブッチ監督作品で、本人のヒット作となった「続・荒野の用心棒」以前に作られた作品。主演キャメロン・ミッチェル、音楽はピエロ・ピッチオーニ。ソフトの裏には「これぞ西部劇版『座頭市』!」と書かれている。原題は「Minnesota Clay」。
主人公ミネソタ・クレイは、無実の罪でドラナー監獄(強制収容所)に18年もの間収監されていた。かつて銃の名手といわれた彼だが、過酷な環境の中で目の病に侵されすでに失明しかけている状態。あるとき、友人でもある監獄のドクターの拳銃を手にしたことがきっかけで、クレイは彼を人質に脱獄することに。クレイは、元仲間であり彼の無実を証明できる男フォックスを探し当て、自身の冤罪を晴らそうと故郷であるメサの町へと向かうのだが……というのが大筋の流れ。
本作が他のマカロニ作品と異なる点は、冒頭でも触れたがコルブッチ監督の西部劇キャリアにおける初期の作品ということだろう。マカロニ・ウエスタン=イタリア製西部劇は、セルジオ・レオーネ監督、クリント・イーストウッド主演の「荒野の用心棒」のヒットにより世界的に知られるようになり、そこからある種の「型」やセオリーが生まれていったと思うのだが、本作の公開は「荒野の~」の2ヶ月後。つまりマカロニ・ウエスタンとしては黎明期の作品というわけである。そういう前情報があるせいかもしれないが、第一印象として画面の雰囲気はよりアメリカ西部劇っぽく、流れる音楽は逆にイタリア音楽っぽさを強く感じた。
主人公クレイを演じるのはアメリカ人俳優キャメロン・ミッチェル。ぶっきらぼうな態度こそ後のマカロニ・ウエスタンに共通するが非常に体格ががっしりしており、他のスマートなマカロニ・ヒーローたちとは雰囲気が違う。ただあらすじでも触れているようにクレイは眼病を患っており、そのハンディを強調するための恵まれた体格と捉えることもできるのかもしれない。
映画の物語としては、脱出パートはほとんど序盤10分程度で終わり、舞台となるメサの町に戻ってきてからがほとんどを占める。そこでクレイは、彼が探し求めていた元仲間の男フォックスが町の保安官にまで成り上がっていたという事実を知る。しかも町を脅かす盗賊オルティス一味から人々を守るというのを建前に、みかじめ料を取るなどやりたい放題。また一方、クレイはまったく思いがけなかった人物との出会いも果たす。故郷のメサを舞台に火蓋を切るフォックスとオルティスの戦い、それに巻き込まれながらも眼病というタイムリミットが迫るクレイははたして目的を遂げられるのか――というところがポイントとなっている。
「1つの町を舞台に2つの勢力がしのぎを削る」という設定は、いわずと知れた世界のクロサワこと黒澤明の「用心棒」だし、それを非公式リメイクしてしまったセルジオ・レオーネの「荒野の用心棒」も思い浮かぶ。というのも、どうもレオーネに「用心棒」のアイディアをサジェストしたのがコルブッチ本人だったらしい(「YOUパクっちゃいなよ」という意味で言ったかどうかは知らないけど)。
ということであれば当然本作も(そしてその後作られる「続・荒野~」にも)その設定が取り入れられているものとみて良いだろう。やはり「用心棒」はマカロニ・ウエスタンの源流なのだ。しかし、本作は「荒野の~」と違い、策略を巡らす展開などはあれど筋書きはコルブッチのオリジナル。主人公クレイの目が霞みぼやける描写が頻繁に差し込まれ、どんどん残された時間がなくなっていく焦燥感を煽るシーンや、終盤の戦いなどは特に素晴らしく、派手な銃撃戦とは別の方法で緊張感を生み出しており、クライマックスでの窮地とそれを切り抜けるアイデアは納得感もあり巧いの一言。ちなみに宣伝文句にもなっている「座頭市」要素はあまり感じなかった。エンディングもなかなかニヤリとさせる。
というわけで、マカロニ・ウエスタン初期の作品でありながら、しっかりとした娯楽作品。特に終盤の追い詰められた状態での戦いは申し分なく、最大の見所と言ってもいい出来。テーマ性よりも、純粋に画面内で起こることに重きを置いたストレートな作品となっている。個人的には後のコルブッチ作品で見かけるシーンの原型となった場面などが見受けられ、そうした意味でも面白かった。
レオーネの「荒野の~」と同年に制作された本作だが、世界的に評価を得たのはほぼそのまま「用心棒」をやっちゃったレオーネ。公開が先だったというのもあるが、前述のコルブッチの関わりも含めてなんとも皮肉な話である。
画像:@ 1964 Titanus
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