映画感想「続・荒野の用心棒」

1966年のイタリア映画。
セルジオ・コルブッチ監督作品。

イタリア人が作ったイタリア製西部劇。
日本では主に「マカロニ・ウエスタン」と呼ばれている。

「続~」とあるが配給会社がつけた邦題で、セルジオ・レオーネの「荒野の用心棒」とは無関係。
原題は「ジャンゴ(Django)」。主人公の名前である。主演のフランコ・ネロの出世作。
特にこの「ジャンゴ」以降、「○○のジャンゴ」や主役の名前をジャンゴにした映画が複数作られた。

なんといっても冒頭の、ジャンゴが一人で棺桶を引きずるシーンからもうカッコいいのだ。
叙情的なテーマソングである「さすらいのジャンゴ」がかかる中、ぬかるんだ大地に曇天、靴もコートも棺桶も泥だらけ。重々しさと不吉さを煽る強烈なシーン。
青い空の下、雄大な自然をバックに颯爽と馬を駆るイメージとはまったく違う。

続・荒野の用心棒
© 1966 B.R.C. Produzione, Tecisa

このジャンゴがやってきたのはメキシコ国境付近の宿場町。この町は元アメリカ南軍のジャクソン少佐一味と、メキシコ革命派のウーゴ将軍率いるメキシコ人勢力が対立し、ゴーストタウンと化している。
そこへ流れ者のジャンゴがやってきて……という、まさに「用心棒」な舞台設定。

しかし、彼は宿場町に平和を取り戻そうなんて殊勝な考えは持っていない。
暗い色のコートをまとったジャンゴは、ぶっきらぼうで愛想がなく、特に悪党に対しては容赦がない。他人を信用せず、信じられるのは金だけ。
アメリカ西部劇のイメージにあるような、周囲から慕われる高潔なヒーローとは正反対なのである。

ジャンゴは二つの勢力を相手に何を狙っているのか。また、引きずってきた棺桶がどう絡むのか。
棺桶の中身は検索やトレイラーを見るとすぐ出てきてしまうが、何も知らずに観るとけっこう驚きがあった。

マカロニ・ウエスタンの特徴ともいうべき要素が、「続・荒野~」にはほとんど詰まっている。
アメリカ西部劇のカウンター的なダークヒーロー、リアルさより面白さ優先の、荒唐無稽な描写や筋書き。過剰な暴力描写、残酷描写、耳に残るテーマソング、そして映画の代名詞となるようなガジェット……。
というか、「○○ジャンゴ」が粗製濫造されたように、この映画がある意味マカロニの一つのスタイルを形作ったのだから、そうなるのは当然なのかもしれない。
拳銃(コルト・シングル・アクション・アーミー)の握り部分の中心や引き金の周りが真鍮になっているのもお約束。

ジャンゴは目的を果たすために、暴力と機転でどんどん人を殺し、出し抜いていく。
大抵はどうしようもない悪党なのでそれ自体は痛快なのだが、ある時点で状況が一転する。掴もうとしたものを失うどころか、ガンマンとして取り返しのつかない状態に陥ってしまうのだ。

そんな状況下でもジャンゴは立ち上がり、最後の勝負に出る。
絶体絶命の中で勝機を見出そうとする。元々流れ者の無法者なので心強い仲間なんていないし、映画が始まったときより状況は悪い。まさにどん底状態。
しかし、何もないからこそ個人の芯の部分がむき出しになる。
特にジャンゴは、自分がそれまで目を逸らしてきたもののために戦いを挑むのだ。

世界を救うとか、そんなスケールの話では全然ないが、大義や名声、利益や称賛目当てでない、自分が自分であるための「個人的な戦い」こそ燃えるし、マカロニ・ウエスタンが持つ魅力の1つに思えてならない。
すべてが終わったあとに流れる「さすらいのジャンゴ」もまた格別である。

最後に、映画の初めから終わりまでジャンゴに巻き込まれっ放しだった宿屋の店主が不憫で仕方がない。

自分はマカロニ・ウエスタンが好きなので、この感想で興味を持った人がおられるととても嬉しい。